小笠原美環と鏡

保坂健二朗

 

 谷中墓地近くのSCAI THE BATHHOUSEで「小笠原美環 beyond silence」(〜5月18日)が開催中である。ドイツはハンブルクに長く住む小笠原の作品を日本で見る機会はあまりないが、彼女の描きだす静謐な世界のファンは少なくない。私もその一人である。

SCAI THE BATHHOUSEについてちょっとだけ紹介しておこう。その名が示すように、そこはかつて柏湯という銭湯だった。建物は昭和26(1951)年建替とそんなに古くはないけれども、銭湯それ自体の歴史は天明七(1787)年までさかのぼるという。そうした、地域に染みついているはずの記憶に敬意を表するかのように、SCAI THE BATHHOUSEは、千鳥破風に瓦屋根の構えは残したまま、リノヴェーションを経て、ギャラリーとしてオープンした。1993年のことである。

展覧会に話を戻す。銭湯だった頃から使われている木戸をがらがらと開けて入るや否や驚いた。入口すぐのところにある作品に描かれていたのが、木立ちの中でこちらを向いて立つ少女だったのだ。

なぜそんなことで驚くのか。それは小笠原のこれまでの主要なモチーフが、室内だったからである。彼女は、あるモチーフが室内にあるというように描くのではなく、室内そのものをモチーフにしていた。戸外の人物を描くことがあったとしても、大抵、背景となる木々は書き割り的に平板で、室内との質的差異を見出すことは難しかった。

しかし今回の作品で、少女は、木々の中に身をおいている。明らかに屋外である。木々の葉は個別にきちんと描かれていて、平板さとは無縁だ。そして、奥の方が明るく手前の方が暗いから、彼女が木立ちの「内」にいるのだと想像できる。室内ならぬ木々内とでも言うべきか。

身につけているものはすべて白い。襟のないノースリーブもスカートも広つば帽子も。しかし、どこかがおかしい。たとえば逆光気味でほとんど表情が見えないところ。しかも、暗いのは顔だけではない。腕も脚も黒いのだから、逆光というよりは、闇に身を浸しているようだ。右手を見ると、傍らの細い木の幹をつかんでいる。なぜ……そう思いながら幹から視線をおろすと、当然、脚先にたどりつく。そして足の裏が触れているのが大地ではないことに気づく。それは木の枝をやんわりとつかんでいる。とすれば彼女は空中にいるのか? なぜ……

 この作品のタイトルは「remembering」(2012)という。「思い出すこと」とでも訳せばよいのだろうか。会場にいた小笠原によれば、「見ている人が、感情を託すことができるような存在として人物を描きたかった。そう、まるでお地蔵さんのような」とのことだったが、確かにそのような機能を果たしているように感じられる。たとえ性別が違っていたとしても、そのことはあまり問題ではない。性別なんかよりも、見ているうちに、彼女が置かれている状況、そこに立っている理由が気になり始めるのだから。

 こうしたこれまでの彼女の作品とは少し違うタイプの人物画が他にも展示されている。「Angst」や「Anfang」や「Hitori」だ。そして、脚を広げてまさに「人」の字の形をして立つ「Hitori」のすぐ近くには、「Saigai」と題された小品がある。2011年の作。それらを見ていると、小笠原が、東日本大震災と福島の事件の後、自分が日常に戻るためのひとつの儀式として、これまでとは異なる生々しい少女を描いたのかもしれないと想像できる。それぞれのタイトルを日本語に訳せば、「思い出すこと」「恐れ」「はじまり」「ひとり」となる。三題噺ならぬ四題噺がつくれそうだが、それよりも、自分もチャレンジと呼ぶような試みをすればこそ、小笠原が、どこか安心して震災以前の作品とつながりの深い新作を描けたことに注目したい。

それが「Spigelung」だ。2013年の作。直訳すれば、反射、鏡像である。描かれているのは、壁と横長の矩形だ。矩形は壁に掛けられた絵だろうか。あるいは、タイトルから連想されるように鏡なのだろうか。答えは判然としない。というのも、矩形のほぼ中央に水平に走る線があって、その線をはさんで上下に線対称になっているからだ。つまり、矩形は、水をはったような床とそこにうつる壁を描いた絵画のようにも見えれば、そうした状況を写し取った小さめの鏡のようにも見えるのだ。前者なのか後者なのか、決め手に欠けることに変わりはない。それよりももうひとつの可能性が残っていることに注意しよう。それは、現実の絵全体とまったく同じだけの大きさの鏡を描いているというケースだ。その場合、描かれている壁と矩形は「こちら側」にあることになる。そうした可能性を考えたくなるほどに、この絵には、謎めいた、けれど柔らかな雰囲気が漂っている。

このような絵が描かれる必要があったのはなぜか。ひょっとしたらそれは、想定外のことばかりが起こり、(超現実ではなくて)非現実的・不条理的になってしまった現実そのものに対する彼女なりの再提案なのではないか。その時小笠原は、鏡像というどこまでも現実に属するロジックを使いながら、謎めいた詩情を高めていくことで、現実味を回復させようと試みたのである。鏡という、絵画に伝統的な要素によって、現実が回復させられたのだ。

 

 

Spiegelung2013 Courtesy: SCAI THE BATHHOUSE

 

 

 


Piece of reality

The world as an indeterminable, uncertain reality. Take a group of people in a forest, in a public place or in the park; a girl on a footbridge; a deserted, desolatelandscape. When I put them into a painting, I merely hint at time, place, action - thus allowing viewers to look more closely and seek their own personal level of reality. Free from subjective concerns and stripped of colour. In my paintings, emotions, ordinary contradictions and human frailties are transformed into gentle, quiet, soft, resonances. The human condition I depict comes from mypersonal observations rather than what is fed to us by the media.

 

Resonance

The resonances appear as a blur which abstract themselves from time and can even span past and future within itself : an extended moment, a present lost in reverie. The source of the resonance is unclear to allow a dreamlike, displaced reality. A sound - quiet but present. What is seen becomes blurred again, rendering the images peculiarly indefinite.

 

Reducing

I came to the conclusion that colour imparts a powerfully shifting impact on a painting – it can radically change the effect and meaning – and this disturbed me. When we see people, we automatically start to interpret. If I depict people in colour, it is immediately much more of a statement and quickly creates the impression of being overloaded. That is why I have been stripping colour further and further back, or rather, fading it out. 

 

Subtle combined differences 

Small canvases are more open whilst portraying blurring, intimations, faintness. With big paintings, it is different. Large surfaces require a self-contained world be depicted. It is a challenge to bring drawing and painting together – to get the balance right between the two techniques. During this unending process of working with reduction, nothing is to be focused and no moment robbed of its continuity. So, looking again and again, you will find – or think you find - images you might not have seen at first glance. I invite my viewers not to trust their eyes too quickly.  Take time to see clearly; give space to each look at a painting for a second or third reading of a scene. Behind frivolity lies earnestness, behind lightness there is seriousness. Nothing is static, stable, nothing stays as it seems to be.

 

Parallelity

What I show in different formats in painting is always a part of the many levels of reality. These levels need each other; idyll and danger, good and evil - their existence is intertwined. Something is amiss if one side is too strong or if one interpretation predominates. So my aim is to captur parallelity of life through in-betweens. 

 

Miwa Ogasawara