展覧会Beyond the silenceに寄せて

 

しばらく見ていると、やがてこれまで内と外、時と所、過去と現在などを、自明の理として当然、峻別していた日常の常識的な区分が溶解し始め、しだいに、静かに遊動する自由な場が開け、その中に投げ込まれ、いささか困惑しながらも、みずから視線を解きはなし、心地よく楽しく漂いはじめる自身に気づく。

キャンバスに油絵具を媒材として描写された画面上の空間構造を確定しようと努力しても成功はまず覚束ないだろう。構築性を一義的に把握しようとすると、手がかりはすり抜け、無駄な徒労に終わるし、そういう操作を作家は受け入れない。場のありさまは定かには見えず、もろく柔らかく漂う形象に囲まれている。ひとは、はかない薄明かりに包まれた玄妙で夢のような別次元に踏み入る心地がする。

まぼろしのごとく空間は現れ、薄暮のかすかに甘く、どことなく死の匂いさえ漂う時間に浸されている。華やかな色彩を一切、排除した禁欲的とも言える表現は、モノクロームに近いが、陰影は豊かで繊細、深々とした余韻に満ちている。まるで秘奥の暗い耽美の世界に招き入れられるようだ。一方で投げ出され、さびしく寄る辺のない孤独な境涯ではあるが、しかし他方では暖かくほんのりと明るい、危険や恐怖からは守られた、いわば両面価値を備える特異な様態でもあろう。

描かれている漆黒のような影と闇は無限に深い。あたかも、漆を幾度も時間をかけて塗り重ね得られたかのような、重層的で奥行きのある黒は伝統的な、まぎれもなく油彩絵具の色彩であって、作家は速乾性の利便さで流布したアクリル絵具の表層的な薄さを嫌うが、密度を追及する姿勢からするなら、むしろ当然な選択であろう。ほのかな余情を帯びたその黒は、深遠微妙な生命的神秘をも感じさせる。

画面に登場する主人公の少女らは、ときに不安、懐疑に捉えられ、なすすべなく佇むほかはない。いたいけな幼子の表情からは、あどけない陽気さは消え、悲しくものさびしそうではあるが、たたずまいは落ち着いて柔和、上品であり、漂うような優雅な気品を備える。

災害をテーマとした明暗の対照がいかにも不気味な出品作2点は、2011年3月の東日本大震災が引き起こした大惨事と、現在も解決に至っていないフクシマの東電原子力発電所の一連の事故、災害をきっかけとし、未曾有な不幸を人類にもたらす大災害を、いつでも起こりうる出来事一般として、その予感を形象化している。共に今を暮らす社会の動きに画家として敏感に反応し、同時に不安というもの一般の本質を暴き出す普遍的な発言にほかならず、自己の立ち位置を冷静に見極める作業であろう。

京都に生まれ、20年来ドイツで制作する作家の、ふたつの異なる精神の風土から受けた影響、あえていうならば幽玄とメランコリーとでもなろうか、描かれたものと描かれなかったもの、それらは類例なく微妙で不思議な均衡を保ちながら立ち現れている。

 

鎌倉 2013412日                 河合哲夫(美術史家)